蓮の葉で和紙を染める

兵庫県神崎郡福崎町の「妙法山蓮華寺」という御寺は、昨年 (平成十四年) 四月に新本堂建立百年および同寺収蔵の日像菩薩染筆とされる「曼荼羅御本尊」が伝えられてから四百年という記念すべき年を迎えられ、さらに八年に一度営まれる像師大法要がかさなった。それを機に本堂内にかかげる幡や袈裟などの制作を私どもの工房に依頼された。

そのおりに蓮華寺さんから、寺名の一字「蓮」の文様をテーマとして意匠 (デザイン) していただきたいとのご要望があり、私どもは鎌倉時代に織られた蓮文様の錦などを参考に、植物染で糸を染めて華やかな織物を制作させていただいた。

昨年四月に行なわれた像師対大法要のあと、御住職から幡の制作工程や当日の法要の様子などを組み入れた記念の本を制作したいとの旨があり、現在もそれに取り組んでいる。

その流れのなかで榮井さんからひとつの提案があった。本の中表紙や扉に、蓮で染めた和紙を使うことはできないかということである。

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冬の工房 − 紅花と藁灰

新しい年をむかえた。昨年の12月はまだ暖かであったが、暮れから正月にかけては京都の街にもときおり雪の舞う日もあって、厳しい寒さがまだ続いている。

工房の前庭には、福田さんが運んできてくれる稲藁が高く積まれていて、例年どおりの冬の景をなしている。

そこに竈(かまど)があって、毎朝八時半をすぎるころに、火を入れて藁を燃やすのである。私どももそのそばに寄り、手をかざして暖をとったりして、10分ほどのくつろいだ時間となる。

その横には地下100メートルから汲みあげられている井戸水が伝わっていて、寒い朝は湯気がたっている。井戸水は冬でも14〜15度あるからである。

この藁灰は、紅花を染めるためのもので、毎日毎日2月の終わりまで燃やしつづけるのである。

近ごろの稲田では、コンバインによって稲刈りがおこなわれており、穂から米を収穫したあとは、藁は刻まれてそのまま田圃に蒔くようになっている。したがって稲藁を集めるのに苦労するわけであるが、私どもは伏見区向島の山田ファームさんに頼んでいる。

山田さんは有機無農薬にこだわって作物をつくりつづけている。稲も旧式に刈り取って、天日干しをしてから籾を採るので、昔ながらに藁がのこるのわけである。

燃やしたあとの灰は、大きなタンクにつめて、その上から熱湯を注いでおく。1、2日そのままにしておくと、その液には藁灰の成分が十分に溶けていく。それをタンクの下の穴から汲みだして貯めるのである。液は弱いアルカリ性になっていて、それで黄水洗いした紅花の花びらを揉むと、赤い液が溶出してくるのである。

紅花の染色に、藁灰は欠かすことのできないものなのである。

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実りの秋 植物染の材料が続々到着

実りの秋です。染司よしおか工房には植物染の材料が続々到着しています。

自然の色を染める: 家庭でできる植物染自然の色を染める: 家庭でできる植物染
監修: 吉岡幸雄、福田伝士
紫紅社刊

家庭でできる草木染め。工程写真1200点とともに、日本の伝統色の染め方をわかりやすく解説。

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吉岡版思うままに「彩 (いろ) と色気 (いろけ)」

彩 (いろ) を染めることをなりわいとしているので、色=色情と解して、いいお仕事ですねと、ひやかし半分にいわれることがたびたびある。そんなときは、いやむしろ彩は表現するばかりで、あちらのほうはもう一つです、と答えておく。

「色気がある」とは、いまではよく使われることばであるが、辞典などを引いてみると、そう古くからのことばではないらしい。「色気より食い気」というせりふが、歌舞伎に出てくるくらいで、どちらかというと江戸の終わりか、近代のことばであろう。

古語で同じような意味で「色好み」というのがあって、これは『伊勢物語』などに出ている。王朝の貴人たちの、男女を問わず色情を好む人を表わしている。中世になると、それだけはなく、風流を解する通人にも適用されるようになる。何も色一筋だけでなく、もののあわれを解する人でもあるのだ。

ともあれ、人間の生きていく源は、つきつめればさきの歌舞伎のせりふではないが、色と食である。

古来より洋の東西を問わず、人は高い地位につくほど、美味を求め、華麗な彩りを求めつづけてきたのである。

彩でいうと、今から2500年前あたりから「紫」が権力者の象徴となってきた。紫は青と赤の間の彩で、それをひと眼見ると、誰しもが妖艶な感じをもつ。まさに色気を感じるのである。

それでも現代では、紫の色というのは女性が纏うもので、男が着ているのはほとんど眼にしないように思う。

ところが、古代の皇帝とその一族は、男性も紫を着用して、黄金の冠とともにその権力を誇り、象徴的な彩としていたのである。

私はその理由の一つに、紫という色が、赤と青の間色であるから、皇帝が民衆の前に立って演説をぶっている間に、太陽が輝くように照りつけたときに、彩が妖しく千差万別に変わりつづけて、不思議な世界に引きこんでいくからではないかと想像している。

ギリシャやローマ帝国の皇帝たちは、地中海に生息する貝の内臓から採った染料で赤紫色をかもし出していた。

はからずも、中国でも同じころ、紫が王族の彩であったが、こちらは紫草の根で染めていた。 

どちらも私どもの工房で古法にのっとって再現しているが、いずれも眼の奥底に染み入るような彩である。

紫、そして鮮烈な赤など麗しい彩は、どの権力者も求めつづけてきたものである。

ところで、色のことは色彩と書くが、同義語ではない。「色」という文字は白川静先生の『字統』によると、人と人とが抱く形で交わることを表わしているという。まさしく色情に相応する。

私のもっぱらとする「彩」は、木の果などを表わしているという。花樹、根、皮などから色素を採るからであろうか。

「英雄色を好む」ということわざがあるが、右のようなことから、英雄は色と彩を好むと記すべきであろう。

『正論』(産経新聞社刊)7月号より

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吉岡版思うままに「昭和三十年ころ」

私は会話がはずんで、むかし話になったとき、「東京オリンピックがあったころはね……」と、その時代にさかのぼることがおおい。私のように昭和二十年前後に生まれたものは、そのころが青春のまっただなかで、ぎっしり思い出がつまっているからである。

ところが、ときにきょとんとした顔をされることがある。話し相手が四十代歳前半の人なら、小さすぎて東京オリンピックの記憶はないだろう、「へえ、そうですか」と不思議な顔をされる。

近ごろ、昭和の三十年前後のことが見直されて、そのころのレトロな風景が再現されているものを写真などでよく見かけることがある。

東京オリンピックが開催されたのが昭和三十九年十月十日のこと。この大イベントを目ざして日本は激変していった。戦後の私たち日本人の生活の大きな分岐点であったといってもいいだろう。

その少し前、私が小学生の昭和三十年代前半を思い返すと、モノが今日のように豊かでなく、不便な生活を強いられていたが、なにか心地いい毎日だったような気がしてならないのである。

私の住んでいた家は、弁柄格子の小さな長屋だったが、玄関から奥までたたきの土間が続いていて、台所にはまだ竈(かまど)があった。

夕刻になると、祖母はそこに薪をくべて羽釜に重い木の蓋を置いてご飯を炊いていた。調理するのも、その熾で炭をいこして、いまの季節ならば骨切りをしてもらった鱧を金串にさして、醤油と味醂とを自分で調合したタレをつけては火にかざしていた。みずみずしい濃い青紫の茄子なども金網にのせて、皮は黒コゲにして焼き茄子をつくっていた。

冷蔵庫は、夏の三カ月ほどだけで、毎朝氷屋が運んできた大きな氷のかたまりを上部に入れて、下の空間にスイカや桃などが冷やされていた。野菜などを大量に貯えることはできなかったし、畑から朝採ったものをお百姓さんが売りにきて、それを毎日必要な分だけ買うわけだから、そのような必要もなかったのである。

スーパーマーケットもなかったし、祖母などは京都の近郊のものでないものを「レールもの」、すなわち列車で運ばれるものだから日時がたっていて美味しくないと言い切っていた。

私は、とかく食に関する関心が強すぎるから、このような子どものころの食べものの思い出を記しているわけであるが、右のような食材の調達やや調理法は今日から見れば贅沢なことのように見えるのである。

だからだろうか、最近は竈で炊いたご飯や、朝、畑や野山で採った野菜を出し、それを炭火で焼いて食べるということは、特別な料理屋さんの仕事になっていて、そんな店に人気が集まりなかなか予約がとれないと聞く。

「三種の神器」といった便利な電化製品や車はとっくに手に入れて、冷暖房の効いたオフィスに勤務する生活。

それを享受しているいまの中高年世代が、昭和三十年代の食生活をなつかしむのは、竈の火やそこから煙がのぼる光景に郷愁をおぼえるとともに、そこに人間の本来の営みがあると認識しているからではないだろうか。

「京都新聞」平成16年6月30日掲載より

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