実りの秋 植物染の材料が続々到着

実りの秋です。染司よしおか工房には植物染の材料が続々到着しています。

自然の色を染める: 家庭でできる植物染自然の色を染める: 家庭でできる植物染
監修: 吉岡幸雄、福田伝士
紫紅社刊

家庭でできる草木染め。工程写真1200点とともに、日本の伝統色の染め方をわかりやすく解説。

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吉岡版思うままに「彩 (いろ) と色気 (いろけ)」

彩 (いろ) を染めることをなりわいとしているので、色=色情と解して、いいお仕事ですねと、ひやかし半分にいわれることがたびたびある。そんなときは、いやむしろ彩は表現するばかりで、あちらのほうはもう一つです、と答えておく。

「色気がある」とは、いまではよく使われることばであるが、辞典などを引いてみると、そう古くからのことばではないらしい。「色気より食い気」というせりふが、歌舞伎に出てくるくらいで、どちらかというと江戸の終わりか、近代のことばであろう。

古語で同じような意味で「色好み」というのがあって、これは『伊勢物語』などに出ている。王朝の貴人たちの、男女を問わず色情を好む人を表わしている。中世になると、それだけはなく、風流を解する通人にも適用されるようになる。何も色一筋だけでなく、もののあわれを解する人でもあるのだ。

ともあれ、人間の生きていく源は、つきつめればさきの歌舞伎のせりふではないが、色と食である。

古来より洋の東西を問わず、人は高い地位につくほど、美味を求め、華麗な彩りを求めつづけてきたのである。

彩でいうと、今から2500年前あたりから「紫」が権力者の象徴となってきた。紫は青と赤の間の彩で、それをひと眼見ると、誰しもが妖艶な感じをもつ。まさに色気を感じるのである。

それでも現代では、紫の色というのは女性が纏うもので、男が着ているのはほとんど眼にしないように思う。

ところが、古代の皇帝とその一族は、男性も紫を着用して、黄金の冠とともにその権力を誇り、象徴的な彩としていたのである。

私はその理由の一つに、紫という色が、赤と青の間色であるから、皇帝が民衆の前に立って演説をぶっている間に、太陽が輝くように照りつけたときに、彩が妖しく千差万別に変わりつづけて、不思議な世界に引きこんでいくからではないかと想像している。

ギリシャやローマ帝国の皇帝たちは、地中海に生息する貝の内臓から採った染料で赤紫色をかもし出していた。

はからずも、中国でも同じころ、紫が王族の彩であったが、こちらは紫草の根で染めていた。 

どちらも私どもの工房で古法にのっとって再現しているが、いずれも眼の奥底に染み入るような彩である。

紫、そして鮮烈な赤など麗しい彩は、どの権力者も求めつづけてきたものである。

ところで、色のことは色彩と書くが、同義語ではない。「色」という文字は白川静先生の『字統』によると、人と人とが抱く形で交わることを表わしているという。まさしく色情に相応する。

私のもっぱらとする「彩」は、木の果などを表わしているという。花樹、根、皮などから色素を採るからであろうか。

「英雄色を好む」ということわざがあるが、右のようなことから、英雄は色と彩を好むと記すべきであろう。

『正論』(産経新聞社刊)7月号より

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吉岡版思うままに「昭和三十年ころ」

私は会話がはずんで、むかし話になったとき、「東京オリンピックがあったころはね……」と、その時代にさかのぼることがおおい。私のように昭和二十年前後に生まれたものは、そのころが青春のまっただなかで、ぎっしり思い出がつまっているからである。

ところが、ときにきょとんとした顔をされることがある。話し相手が四十代歳前半の人なら、小さすぎて東京オリンピックの記憶はないだろう、「へえ、そうですか」と不思議な顔をされる。

近ごろ、昭和の三十年前後のことが見直されて、そのころのレトロな風景が再現されているものを写真などでよく見かけることがある。

東京オリンピックが開催されたのが昭和三十九年十月十日のこと。この大イベントを目ざして日本は激変していった。戦後の私たち日本人の生活の大きな分岐点であったといってもいいだろう。

その少し前、私が小学生の昭和三十年代前半を思い返すと、モノが今日のように豊かでなく、不便な生活を強いられていたが、なにか心地いい毎日だったような気がしてならないのである。

私の住んでいた家は、弁柄格子の小さな長屋だったが、玄関から奥までたたきの土間が続いていて、台所にはまだ竈(かまど)があった。

夕刻になると、祖母はそこに薪をくべて羽釜に重い木の蓋を置いてご飯を炊いていた。調理するのも、その熾で炭をいこして、いまの季節ならば骨切りをしてもらった鱧を金串にさして、醤油と味醂とを自分で調合したタレをつけては火にかざしていた。みずみずしい濃い青紫の茄子なども金網にのせて、皮は黒コゲにして焼き茄子をつくっていた。

冷蔵庫は、夏の三カ月ほどだけで、毎朝氷屋が運んできた大きな氷のかたまりを上部に入れて、下の空間にスイカや桃などが冷やされていた。野菜などを大量に貯えることはできなかったし、畑から朝採ったものをお百姓さんが売りにきて、それを毎日必要な分だけ買うわけだから、そのような必要もなかったのである。

スーパーマーケットもなかったし、祖母などは京都の近郊のものでないものを「レールもの」、すなわち列車で運ばれるものだから日時がたっていて美味しくないと言い切っていた。

私は、とかく食に関する関心が強すぎるから、このような子どものころの食べものの思い出を記しているわけであるが、右のような食材の調達やや調理法は今日から見れば贅沢なことのように見えるのである。

だからだろうか、最近は竈で炊いたご飯や、朝、畑や野山で採った野菜を出し、それを炭火で焼いて食べるということは、特別な料理屋さんの仕事になっていて、そんな店に人気が集まりなかなか予約がとれないと聞く。

「三種の神器」といった便利な電化製品や車はとっくに手に入れて、冷暖房の効いたオフィスに勤務する生活。

それを享受しているいまの中高年世代が、昭和三十年代の食生活をなつかしむのは、竈の火やそこから煙がのぼる光景に郷愁をおぼえるとともに、そこに人間の本来の営みがあると認識しているからではないだろうか。

「京都新聞」平成16年6月30日掲載より

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藁 (わら) の灰

今年は、桜のたよりも駆け足でやってくるような温かさである。寒いあいだは、私たちの工房では紅花染をもっぱらとしていて、藁の灰を毎日のように前庭にある竈で燃やして、その灰汁で、花から赤を搾り出すのである。

灰汁をとったあとの灰は、陶芸家の方々がとりにこられる。釉薬として使われるのである。

灰には、アルカリの成分が入っていて、染色にはそれを用いるわけであるが、それが、湯のなかに溶けていって抜けたあとにはケイ酸がのこる。それが高温で燃焼すると、陶器の表面をガラスのようになめらかにするのである。

日本は稲の国である。米を主食として生活し、そののこりの藁を灰にして、染色や洗濯、絹の練りなどのアルカリ性の溶液として使ったり、さらに陶磁器にも用いる。

また、藁は畳のなかに入れたり、納豆の包みなど、古くから日本人の生活にかかせないものであったのである。

四月になってさらに気温があがってくると、紅の色はさえなくなるので、その仕事はこの秋の終わりまでしばらくは休むことになる。

このところは椿の灰を造っている。この稿で何度も書いたように、椿の生木を燃やした灰には、アルミニウムの成分があるようで、紫根染、黄染、刈安染などをする場合には、媒染材、発色材として用いるので、いわばこれも工房の常備品なのである。

このところ、兵庫県姫路市に近い、福崎町の蓮華寺さんのお仕事をさせてもらっているが、そこの境内の椿の木の剪定をされたそうで、それをたくさんいただいた。

工房の福田伝士氏は、このところ朝、工房に来ると、その椿の木を燃やして、灰を毎日のように造っている。

かつては灰屋という商店がいくつもあって、紺灰座という藍染用のものがあったように、それぞれの用途に応じて灰を造っていた。

江戸時代の初め、灰屋紹益(佐野紹益)という豪商がいて、島原の名妓・吉野太夫を身請けしたという話がのこっている。灰屋は今でいう化学会社で、大きな商いであったようである。

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吉岡版思うままに「和を尊ぶ」

新しい世紀をむかえたあたりから、日本を掘る、日本の歴史と文化をもう一度探って見なおそう、という風潮がかなり高まってきているように思う。

わが国は、長い鎖国の時代があり、それが解かれて明治時代になってからというもの、西洋の文明が怒涛のように流入して、近代化がはかられてきたが、その一方で、日本古来のよいものがたくさん失われた感がある。とくに第二次世界大戦後に加速された。

「和を尊ぶ」という風潮は、あらためて日本という国が、地球上のどの位置にあり、その自然風土がどのように培われ、文化文明がいかに構築されたかを知り、こんにちの姿を見極め、失われたものを毎日の生活にも生かしていこうという動きである。いいことである。

ただ、このような流れそのものは歓迎すべきことではあるが、それがあまりにも性急であること、とらえ方がきわめて一元的であることも否めない。

たとえば、私は仕事柄、色に関する質問をよく受ける。「藍は日本人の色ですね」という感嘆が発せられる。たしかに明治のはじめに来日したある外国人は、街を歩いている日本人が一様に藍染の衣服を着ているのを眼にして、それを「ジャパン・ブルー」と表現している。江戸時代に木綿が普及して、各地に紺屋ができたため、藍染がよくおこなわれたからである。だが、これは日本だけのことではない。藍染は世界各地でおこなわれ、身分の上下なく親しまれた色である。ジーンズの色からも、それは納得していただけると思う。

ひとくちに藍といっても千草のごとくで、日本のなかでも、平安時代の人びとが認識していた「藍色」は、少し黄味がかった緑系の色であったことが、文献からも読み取れる。時代により、人びとの色に対する感性が少しずつ異なるのである。

これから梅や桜の花だよりを聞くことが多いが、淡い紅の桜の花を、「ピンク」と表現されたりすると、がっかりしてしまう。英語のピンクは「撫子」「石竹」のことである。

「禅」=「ZEN」という文字もよく眼にする。これは、欧米からの逆輸入の言葉で、彼らは日本の文化を一語で簡潔に表現するには、これが最適だと考えたのであろう。ある種の流行語になってしまっている。

「禅」とは、仏教に基づくもので、それが中国で発展し、日本へは鎌倉時代にもたらされて、たしかに文化の形成に大きな影響を与えたものであるが、これが日本のすべてではないことは、誰でも知っていることである。それを、欧米で使われたからといって、いとも簡単に使ってしまうのはどうだろう。

「和」という言葉のなかには、うまく釣り合いがとれているという意味も含まれている。言葉も選んで、調和がとれていることを尊ぶようにしたいものである。

(この文章は、京都新聞に掲載されたものになります。)

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