蓼藍 (たであい) の本植え

蓼藍の本植えをした畑

蓼藍の本植えをした畑

藍染に用いる「蓼藍 (たであい)」の葉は、春に種を蒔いて梅雨のあけた真夏に収穫します。

私どもの工房で染めるのには、阿波徳島のすくも (干藍) を主に使っておりますが、近くで栽培して、生葉染などに応用しています。

工房のあるところから南は、かつての巨椋地の干拓地で、水田が広がっていて、湿りもあるところから、蓼藍の栽培には適しています。

農家にも作付を依頼していますが、工房の福田さんが四月に種をまいておいてくれたものは、蒔田さんという方の御厚意で借りている畑で育てています。

6月6日〜7日、その苗を移植して本植えをしました。

あとおよそ60日、1メートル近くまで十分な色素を葉に含みながら生長してくれることを祈るのみです。

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吉岡版思うままに「看板と暖簾」

15年ほど前になるが、ある建築雑誌に連載で、「京都の意匠」というタイトルで、京都の社寺や民家などの細部の造形美について書いたことがある。ある回は、「看板と暖簾」というテーマであった。

貨幣経済が発達するまでは、街や村には決められた日に市がたち、物々交換が行なわれていた。やがて、都市の機能が整うと、そこには恒久的な店舗が構えられるようになる。すると、何を商っているのか、どういう屋号なのかを表示して、通りを行く人びとに知らせ、呼び込むことが必要になって、店先に暖簾が掛けられるようになった。しかし、軒下に掛けられた暖簾は、正面近くまで来なければ見えない。

江戸時代になって都市が大きくなり、通りを行き交う人も多くなってきた。そこで、軒先に看板が掲げられるようになり、それは通りに直角に突き出すことも可能であるから、より目立つ存在になったのである。江戸時代の町並みを描く「洛中洛外図屏風」などを細見すると、その意匠には感心させられるものが多い。

かつて雑誌の取材で回ったおりも、建物にも気品が感じられる老舗では、やはり暖簾も看板も重厚で、色といい形といい、感性の高さのうかがえるものが多く、さすがに京都だと感じ入ったものだった。

ところが、このところ京都の街を歩いていると、色遣いがどぎついだけでなく、歩く人を威圧するようなものがあって、心が落ち着かなくなることが多い。「黄色い看板……」などという金融業者のTVコマーシャルの巨大なモニュメントのようなものに、京都の意匠も隠れてしまっているようである。

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染料になる樹 – 花水木の花、胡桃の花序

京都の洛南、伏見にある私の工房は、昔の長屋の建物である。隣が引っ越しされるたびに父が借り足していったものだから、必然的に横に長くのびた家になっている。

幸い、東西に長くなっているので、南に面して細い庭があり、どこも日当たりがよく、染料になる樹もたくさん植えてある。

4月下旬あたりには、花水木の花が白系と淡い紅系のものと2種咲いて、朝日に照らされて美しかった。ところが、ここ2、3日でもう散っている。

胡桃の花序

胡桃の花序

そうかと思えば、胡桃 (くるみ) の樹には、花というよりも、細長い小さな実のようなものが垂れ下っている。植物事典などを見ると、それは花序 (かじょ) で、枝の頂上から1本垂れているのが雌花、その横に4、5本垂れているのが雄花であるらしい。それもこのところ散ってしまって、屋根瓦のうえに広がっている。花序というのは、複数の花が集団をなしていることをいう。

カバノキ、ハンノキ、ナラなども同じように花序が枝から垂れている。

5月になって樹々は華麗な色とはいえないが、黄から萌黄色の花序をたくさんつける。山を見ると、緑の新しい葉のうえに浮き上がるように見えるのが花序である。

やがてこれらは実を結んで、夏にかけて生長する。その実の中にはたくさんのタンニン酸が蓄積されていくのである。

ブナ科のナラやカシ、カバノキ科のハンノキの類い、そしてフトモモ科のクルミ、どれも植物染をもっぱらとする者なら、お世話になっているものばかりである。

5月は、工房の小さな庭にも新しい生命の息吹が感じられる時である。

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桜鼠(さくらねずみ)

京都の洛南に墨染というところがある。

この前も東京から来られた人と車に同乗していて、そこを通った折に、昔はこのあたりで墨で染物をしていたのですかと、尋ねられた。そうではなくて、地名は次のような歌に由来しているのである。

『古今和歌集』に収められている「深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染めに咲け」と上野岑雄 (かむつけのみねお) が、友人である藤原基経 (もとつね) が亡くなったのを悲しんで詠んだものである。

平安時代、都の南・深草の里は貴族の別荘が営まれていて、その一角に桜の名所があった。岑雄は、親しい人が亡くなると、鈍色、すなわち薄墨色の服を着て喪に服するのだから、せめて今年だけはこの美しい桜も墨色がかったような桜鼠の色に咲いてくれと願いをこめて歌をつくったのである。それからその深草 (ふかくさ) の里の一角は墨染と呼ばれるようになった。

「桜鼠」という色名は、このようなところから由来していて、私の工房では、淡い紅色に染めてから、檳榔樹の実をお歯黒鉄で媒染して薄墨色をかけている。

岐阜県根尾谷の淡墨桜

岐阜県根尾谷の淡墨桜

この歌を表すかのような色をした桜が岐阜県根尾谷にあって、満開の頃は多くの人びとが訪れるらしい。

私はその地へおもむいていないが、この樹が分枝された弟分が、奈良西の京の薬師寺の寺務所前にあって、何度も拝見している。三月三十日から四月五日まで薬師寺では「花会式」が行なわれる。その儀式を見学する前に、薄墨桜とも出会ってほしいものである。

日本の色辞典桜鼠鈍色の色標本と詳しい解説は
日本の色辞典』をご覧ください。
吉岡幸雄・著 (紫紅社刊)

王朝のかさね色辞典王朝のかさね色辞典』吉岡幸雄・著 (紫紅社刊) の「桜の襲 (かさね)」には、植物染で再現された桜の襲、薄花桜の襲、白桜の襲、樺桜の襲、桜萌黄の襲、松桜の襲など、桜の襲だけで25種類のかさねが紹介されています。

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桃染(ももぞめ)

桃の花

桃の花

三月三日は、「桃の節句」雛祭である。京都では旧暦にしたがって四月に行なわれることが多い。

今日では雛壇に有職風な雛が並び、その下に五人官女などと雛道具が、豪華に並ぶのが当たり前のようになっているが、本来の三月三日の節句はそうしたものではなかった。「上巳の祓 (じょうしのはらえ)」と称し、三月の最初の巳の日に水辺に出て穢れや禍を祓う習わしが、古来、中国にあった。それは「水」の精への祭のひとつとして、禍を流水に託して、とりのぞくということからであった。

人形 (ひとかた) を造って、それに我が身の禍を移して流すということが、我が国でも行われ、平安になって、天皇や貴族が水辺に行幸して宴を催すようになった。これが「曲水の宴」に結びついたのである。三月三日が桃の節句となって、雛人形を華やかに飾るようになったのは江戸時代からである。

ところで、この季節に咲く桃の花は、中国が原産で、日本へは弥生から古墳時代にかけて渡来してきたらしい。ただ、『古事記』、『万葉集』に記された「モモ」がすべて「桃」であるのか「ヤマモモ」であるのかは判断がむつかしいという。

清少納言の『枕草子』に「三月。三日はうらうらとのどかに照りたる。桃の花。いま咲きはじむる。」とある。三月三日の三の数が重なる節句に桃の花が咲き、それにからめていることが知られる。この頃から「桃の節句」が定着していたと思われる。

だが、桃の果実は平安時代以降、梅、桜のようにその季の彩りを尊び、詩歌や物語、随筆などに登場することは少ない。そのせいか、桃を描いた絵画やデザイン化した工芸品もその例が少ない。

私の記憶では、西本願寺の北と南の能舞台の蟇股に桃の豊かな花と実が表されている。桃山時代の香を伝えて、秀逸である。(『日本のデザイン』第14巻 五穀・蔬菜・果実 98頁〜99頁参照)

そういえば、桃山時代の名の由来は、秀吉が京都の洛南に伏見城を建立した地が、もともと伏見山という地名であったものが、その伏見城が崩壊したあと江戸時代に、桃の木が植えられて、一帯が桃畑のようになってから、桃山という地名に変わったからである。本当は、近世の始まりは「安土伏見時代」と名付けられるべきであろう。江戸元禄時代の俳人、松尾芭蕉はこの地をたずねて「わが衣に伏見の桃の雫せよ」という句を残している。

最後に余談だが、桃色のことを日本ではピンクということが多いが、英語の pink はなでしこのことである。(『日本の色辞典』桃染 47頁参照)

日本の色辞典桃染の色標本と詳しい解説は
日本の色辞典』をご覧ください。
吉岡幸雄・著 (紫紅社刊)

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