「江戸風の蕎麦屋で、父と」

吉岡 幸雄

私の家は、京都で二百年あまりつづく染屋である。私で五代目になる。祖父は長男であったにもかかわらず、どうしても日本画家になる夢が捨てきれずに、弟に家業をゆずって明治二十九年に東京へ出た。当時の日本美術院に属していたが、四十三歳という若さで亡くなっている。あとを継いだ三代目にあたる祖父の弟は、大正年間に京都の西洞院綾小路を西に入った、同じような染屋が軒を連ねるところで盛業していた。往時は、きものが全国津々浦々まで販売されていて、とても景気がよかったのである。

そのなかでも東京はなんといっても最大のきもの消費地であった。工場を京都だけでなく、東京にも造営するところが増えていった。

吉岡の染工場も、ご多分に洩れず旧高田二丁目の神田川沿いに設けられた。三代目は、月に二、三度夜行列車に乗って京都と東京を往復して仕事を続けていたという。その東京工場も、第二次世界大戦の空襲ですべて焼けてしまった。

私も、そうした「東京」への志向を受け継いだのか、高校卒業後、早稲田大学へ入学した。

ちょうど東京オリンピックが終わったあとで、高度成長した東京の街は、いかにもハイカラなものに見えた。

私は江戸情緒を味わうと称して、大学をさぼって寄席に行ったり、夕刻早くに老舗の蕎麦屋に入って、酒を飲んだりするようなぐうたらな生活をおくっていた。

日本橋の「砂場」が、まだ都電の通りに面していたころである。京都で育ったものにとって、蕎麦屋で、卵焼きや焼き海苔で、酒を一杯やるということは、全くそれまで見ることのなかった風景なのである。「これこそ江戸の粋」などと勝手に思いこみながら楽しんでいた。

あるとき、私の父が久しぶりに上京してきた。四代目の父は、東京にはそうなじみがない。息子に御飯くらいご馳走してやろうという親心で「どこか、お前の好きなところへ連れていってやる」といってくれた。

私は日本橋にいい蕎麦屋がある、そこにしようといって案内し、二人でのれんをくぐった。父は、はじめはその佇まいに感心してご満悦なようであった。酒を飲まない人だったので、ちょっと甘めの卵焼きなどを美味しそうにつまんで、あとは盛り蕎麦を食べていた。

そこの勘定は当然、父が払ってくれたのだが、蕎麦屋の値段にしては、かなり高く感じたのであろう、別れ際に、学生の分際でたびたび来るところではないぞ、と苦言を言われた。これもいまとなっては、なつかしい思い出である。

都電はなくなり、砂場は大通りからいま少し入ったところに移ったが、古きよき佇まいを残しながらある。いまも上京して時間のあるときは、立ち寄って亡き父の言葉を想い出したりしている。

日本橋高島屋 吉岡幸雄の仕事「王朝のかさね色」展 ドキュメンタリー映画「紫」色に魅了された男の夢
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