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私は、京都のなかでも、洛外の伏見という街で生まれ育った。齢六十を越えても、いまもなおそこに住んでいて、昔ながらの天然染料をつかった染屋をいとなんで暮らしている。
人は誰もがそうだと思うのだが、自分が生まれ育ったところには格別の思い入れがある。あたりまえのことだが、私がまだ幼かったころの昭和三十年前後と比べると、伏見の街も大いに変貌している。でも、ふと通りかかるところに昔のままの景色がのこっていたりして、なつかしく感じることがある。それは風景や佇まいといった眼で覚えている記憶だけではなく、そのときに一緒にいた知人や友人の人となりまでがかさなりあって、走馬燈のようによみがえってくるのである。
伏見のことを書き綴っておこうと志をたてながら、なかなか果たせないでいる。もう五月も半ばをすぎている。私の家がある伏見区向島に、山田豪男君という農業を営む青年がいて、毎年、私どもが染色に用いる蓼藍と紅花の栽培をお願いしている。その畑が旧巨椋(おぐら)池の干拓地にあって、そこへ足を運んで若苗の状況を見てみたいと思いながら時がすぎていく。
巨椋池と書いても、多くの読者はどこにある池なのか理解されにくいと思うが、伏見に育った私からすると、いい響きの言の葉なのである。ところがいまでは、「旧巨椋池」と記さねばならない。つまり、もうその池は存在しないといっていいからである。
いまから一千年ほど昔の京都の地形を再現した地図を見てほしい。
七九四年に京都に都が遷されて、都の条里制は三方を山で囲まれた盆地の真ん中にあるが、南側には山がない。そのかわりに大きな巨椋池があったのである。周囲一六キロで東の端はいまの宇治橋の少し下流で、そこから宇治川の水が流入していたのである。そしてその遊水は西の淀あたりで淀川にそそぎ、京のほうから流れ来る桂川、鴨川、さらには南からくる木津川と合流して、大阪湾へとつながっていた。京の都の南に、そのような大池があったということは、今日の人は知るよしもないのである。
この巨椋池に最初に手をつけたのが豊臣秀吉であった。
周知のように、秀吉は大坂城のあるところへ通じる淀川の交通路に眼をつけて、都の南の伏見山に城を築こうとした。そのおり、さまざまな資材を運ぶために巨椋池の北側に堤を築き、宇治よりの流れをつくったのである。いまの宇治川である。
宇治から巨椋池への川の流れは堰きとめられたわけで、池の水質は悪くなっていった。それでもなお巨椋池は、江戸時代よりも風光明媚な地として多くの人々が遊行していたとされている。
だが、時は過ぎて、近代になっての築堤などもあって、昭和の時代になり、食糧不足や湖沼のなかにマラリア蚊が発生するなどを克服する、いわゆる近代化の波が押しよせてきたのである。昭和八年より、干拓事業がはじめられ、十六年に巨椋池は広大な田畑にかえられた。
右のような巨椋池の歴史については、諸研究の成果が出版されているので、ここではこのあたりにしたい。
また、ここは蓮の名所としても知られた。それについては和辻哲郎が「巨椋池の蓮」という名文で干拓される前のその美しさを語っている。
さらには巨椋池の西部にある、一口(いもあらい)というところの農家に育った故内田又夫氏のこの池と蓮にまつわる研究は、識者の間ではつとに有名である。
私はこの稿では、古典文学に視点をあてて、小文を記したいと思う。
このあたりの情景を詠んだもっとも古い歌が『万葉集』に二首おさめられている。
まだ平安京の造営などはほど遠い時代で、むしろ大和の国とは、巨椋池の東端にあたる宇治を経て、滋賀の瀬田川を上って近江との交通が頻繁であった。
おそらくこの万葉歌は、大和よりの旅の人が宇治の里について池を周遊して詠んだのだろうと想定できる。
宇治川にして作る歌二首
巨(おほ)椋(くら)の入江(いりえ)響(とよ)むなり射(い)目(め)人(ひと)の伏(ふし)見(み)が田(た)居(ゐ)に雁(かり)渡るらし
秋風に山吹(やまぶき)の瀬(せ)に鳴るなへに天(あま)雲(くも)翔(かけ)る雁に逢(あ)へるかも
「巨椋」「伏見」の地名が詠みこまれていて、秋の日には雁が群れ飛ぶような光景がみられたのであろう。
ところで昭和三年のまだ干拓の鍬が入らないころに、京都駅から西大寺までの間に、現在の近鉄京都線にあたる奈良電気鉄道が開通している。それは秀吉が築いた太閤堤とも称される小倉堤に沿っての路線で、そこを電車が走ると鳥がその音に恐れを成して飛び散ったという。その話をしてくれたのは私の亡父で、青空が暗くなったというほどの鳥が群れ舞っていたという。往時とは比較にならないが、今日でも開拓地の農耕地は野鳥の宝庫として知られている。
二首目の「山吹の瀬」とあるのは、今日の宇治川の東岸、興聖寺という曹洞宗の名刹の建つあたりであろう。
平安時代になると、大和と京の往来もさかんになると、宇治、そして巨椋池はきわめて重要なところとなっていく。
先日も、『和楽』という雑誌に『六条御息所 源氏がたり』を連載しておられる小説家の林真理子さんと対談する機会をえた。
そのおり「玉鬘」の場面にゆかりの石清水八幡宮を訪れ、参拝したあと、そこの展望台より旧巨椋池の西端と木津川の流れの風景を見た。そのあと宇治へ向かって、「宇治十帖」の地を歩いたが、その道はまさしく巨椋池を東西に横切っていることになる。
これについては『和楽』五月号をご覧いただきたい。
旧巨椋池は、つぎにまた……。
私が4歳から11歳まで住んでいた深草の里は、まさにその名のごとく草深い野であった。古代、農業のすぐれた技術と養蚕、また機織りの技をもって朝廷に仕えた渡来人の秦一族が住まったところである。深草のすぐ北に稲荷山の峰があり、秦氏は、古くからこの地を治めていた稲田段の一族とともに、稲の豊作を祈ってその山頂に稲荷神社を創建し、崇めたのである。
夕されば野辺の秋風身にしみて鶉なくなり深草の里
と歌われたように、深草の草叢には鶉の床があって、野を飛び交い、秋には鳴く声が響いていたのである。
深草の里は、風光明媚なところから、平安時代には貴族の別業が営まれるようにもなった。平安時代、摂政関白家として栄えた藤原一族の礎を築いた藤原基経(836〜891)は、ここに極楽寺という壮大な寺院を建立した。稲荷山の南に、私たちは七面山と呼んでいた深草山の小さな丘があって、そのふもとに宝塔寺という寺がある。その南西に瑞光寺という茅葺きのゆかしい本堂をもつ寺があり、その西側をJR奈良線が走っている。さらにそこから西に直違橋という通りがある。極楽寺はそのあたり一帯を寺域としていたというから、四方700メートルにも及んだことが想像できる。
『大鏡』の記述を借りると、基経が仁明天皇に仕えていたときのこと、芹川にある鳥羽離宮に行幸されたおり、琴を奏でる爪を落とされたことがあり、まだ幼くて殿上童という身分であった基経にそれを捜すように命じられた。そのとき基経は、爪を捜し当てることができたなら、その場所に寺を立てようと心に誓いながら賢明に捜した。そして、この深草のあたりで見つけたという話である。
墨染と深草に古色を見る
基経はのちに清和、陽成、光孝、宇多と四代の天皇のもとで、政治の実権を握っていく。極楽寺は、権力の頂点に立った基経が、現世における不安を取りのぞき、来世は極楽浄土へ往生することを願いながら、この世にその浄土さながらの世界をあらわしたいと、かつて爪をみつけた思い出の深草の地に建立したものである。
ちなみに、同じ藤原氏での一族で、100年あまりのちに権力の座に上りつめた藤原道長は法成寺を、その子頼道は平等院を造営している。
基経の建てた極楽寺は、いま、その面影を偲ぶ遺構はまったくないが、おそらく平等院をしのぐ豪壮なものであったことは推測できる。
基経の邸宅は堀川院にあったが、このような深草の地とのゆかりの深さからか、基経が亡くなった折には次のような歌が詠まれている。
堀河の太政大臣身罷りける時に、深草の山をさめて後によみける
空蝉は殻を見つつもなぐさめつ深草の山煙だに立て(僧都勝延)
深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染めに咲け(上野岑雄)
はじめの歌の「深草の山」とは、基経が建立した極楽寺をさしているのである。また、深草の南の野辺には桜の名所があったため、「墨染めに咲け」とは、その淡紅の美しい桜の花も、今年ばかりは喪に服して、人の衣と同じように薄墨色に咲いて、ともに哀しみを分け合おうではないかと詠んでいるのである。この歌が詠まれたあと、そのあたり一帯を「墨染」と呼ぶようになったといい、いまもその名称が使われている。
墨染から山に向かって広がる、私が子どものころになれ親しんだ深草の竹林は、平安のむかしは「竹の葉山」というゆかしい枕詞で歌い詠まれていることをのちに知った。
ふかくさや竹の葉山の夕暮に人こそ見えねうづら鳴くなる
藤原氏の栄華が過ぎ去ったのあと、極楽寺の寺域は小さくなり、宋から帰国した道元がその一角に曹洞宗を開創し、興聖寺を創建した。さらにこの地はいま、日蓮宗の宝塔寺として名残をとどめている。
私がいまでもそのあたりを歩くときに思い出すのは、昭和30年代のはじめまで大きな荷台を曳いた馬車が一日に何代も通っていたことである。この東の山一帯は良質の色土の粘土が採れるところで、古代から建築の資材を調達していた場所でもあった。その坂を下ったところには、いまでも色土を加工している尾崎さんという家がのこっていて、茶室などに見られる聚楽壁の赤土などが積まれている。さらに、そこから少し東南に行った霞谷のあたりの入口を瓦町という。瓦を焼いていたところである。かつては十数軒あった瓦屋もいまは寺本家一軒となってしまったが、路傍には古い黒瓦などが並べられていて、かつての京の街の屋根瓦のほとんどをこのあたりのものでまかなったという、その面影を見ることができる。
深草の稲荷大社に近いところに、石峰寺という黄檗宗の禅道場もある。住宅の並ぶなかをくぐるように行くと、小さな階段の参道があり、赤土で彩られた竜宮城のような門が見えてくる。そこから奥の竹林に向かうと、江戸時代の中ごろに活躍した伊藤若冲(1716〜1800)が下絵を描き、石工に彫らせたという五百羅漢が、あちこちにうずくまるように並んでいる風雅な寺である。
京都錦小路の青物問屋の主人であった若冲は、絵師を志すとともに、仏教にも傾倒して禅宗を学んだという。花鳥画を得意として、鶏をわざわざ飼育して写生したりした。あるときは極彩色の岩絵の具を駆使して克明に描くかと思えば、墨の暈かしによる濃淡だけで瞬時に眼に入ってくるような大胆な画風で、異彩を放つ画家として人気が高く、2000年には京都国立博物館で没後200年を記念して展覧会が開かれ、大勢の人を集めた。
その若冲は晩年をここ石峰寺ですごし、米が一斗あれば一幅の絵を描くというところから「米斗翁」と自称したという。境内にはそれを刻んだ若冲の墓もある。
私の子どものころはこの一帯は、なだらかな丘と竹林と畑が広がり、寺の土壁が見えるというのどかな風景であった。いまは霞谷を名神高速道路が走り、JR奈良線も複線となり、住宅地が年々広がって、お寺や深草十二帝陵などへの入口を見つけるのに苦労する。竹の葉山の面影も丘の一角や大岩山深くに入らなければ見られなくなってしまった。
石峰寺の弁柄色や山内の石仏、宝塔寺の行基式といわれる屋根瓦、元政庵のかやぶきの屋根の渋い茶色などを捜して、点と点を結んで深草の歴史を偲ぶしかあるまい。
元政庵のなかを横切るJR奈良線を西へくぐると、長屋門の表構えの立派な民家ものこり、むかしの風光がただよっている。そのあたりは平安朝のよすがを伝える極楽寺町となっていて、藤原基経の偉業を思い起こさせる静かな一区画である。
(『京都色彩紀行』PHP研究所刊)
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この3月の末に、京都市伏見区にある御香宮神社で講演をすることになった。私の場合は講演ということになるとおおかたが色彩や染織に関することであるが、このたびは「我が町 伏見 故事捨遺」と題した、この街の歴史の落ち穂拾いのような内容を依頼された。
このあたりの古いゆかりある神社や仏寺が集まって「洛南保勝会」という組織をつくって、その歴史を探りながら広報活動をおこなっておられる。
保勝会の会長が中書島の長建寺住職・岡田豊禅さんである。この長建寺は私の祖母や母の時代からおつきあいを願っているため、岡田住職は私が生まれたときから知っておられるのだから、舎弟のようなものである。そうした方からのご依頼であったので、一も二もなく講演をお引き受けした。この街で生まれ育って、いまもなお日々暮らしているのだか、その郷土の歴史を語るとなると、まことに不勉強きわまりないと自戒していた。
そこでそれを補うべく、私がかつて読んだ小説や随筆などから伏見を舞台にしたものをお話ししながら、この地の成り立ちと名所旧蹟を見ていこうということにした。
私がまだ大学生のころのことである。青臭い文学少年であったが、新聞の広告欄で稲垣足穂(たるほ)が『宇治桃山はわたしの里』という題名で、『文学界』という文芸雑誌に掲載という知らせを読んで、さっそく買い求めた。むさぼり読んだが、正直にいって足穂の文学を理解できるところと、私の往時の歴史的知識の浅さではとうてい及びのつかないところも多かった。それでも私の育った身近な場所の成り立ちが書いてあるのだから、無心に読んだところは記憶にのこっている。のちに現代思潮社から『稲垣足穂大全』(1970年)が出たが、その五巻目にも『宇治桃山は……』は収録されていて、それは私の書棚に四十年近くも並んでいる。
今回、このような機会を得たので読み返してみたが、以前より少しはよくなったようだが、私の力ではやはりすべてを理解するまではいかず、いいところどりをして、あつかましくも聴衆のみなさんの前でお話させていただいた。そのおりの題名どおり「故事捨遺」、まさしく古きことの落ち穂拾いであった。
ここではそのなかで伏見桃山という地名の由来について話をした部分を記しておきたい。
日本の歴史を学校で勉強するおりに、時代区分、すなわち奈良、平安、鎌倉、室町、江戸時代などは、もともとの地名があってそこに朝廷や幕府が置かれていたことからつけられている。ところが織田信長の安土城はいいが、秀吉の時代を桃山と呼称するのは、この規則にあっていない。というのは、豊臣秀吉が伏見城を築いたおりには、桃山という地名はそこに存在していなかったのである。だから時代名は、安土伏見時代というべきなのである。
伏見城は慶長元年(1596)の大地震と秀吉が慶長3年(1598)に亡くなったあと、関ヶ原の戦いの前哨戦となった伏見城の戦いで二度崩壊している。そののち家康によって再建されて、三代将軍家光がこの城で将軍になる宣化を受けたまでがその雄姿を遺していたが、寛永元年(1624)ごろに廃城となった。
ただその遺構は、御香宮神社の唐門をはじめとして、二条城、西本願寺、高台寺、竹生島神社などへ移されて、現在まで遺っている。
そのため伏見の街は衰えていったが、高瀬川の開削、淀川を下って大坂へとつながる三十石船の運航などで交通の要衝となり、幕府の直轄地となって再び繁栄していった。それには駿河の国からきて第四代伏見奉行となった山口駿河守の功績が大きかった。やがて彼は駿河国へ帰ることになったが、その家来で西野弥平次という男がいた。弥平次は父から因果をふくめられ、この地にのこって百姓となった。弥平次は伏見の港から大坂へ下った天満の地にあった青物商と知りあい、そこから桃の苗木を数本送ってもらい、かつての城跡の一角に植えて栽培に成功した。この話は寛永十四年(一六三七)の話だそうだが、それから五十年ほどたった元禄時代には、桃の木は三万本にも増えていたという。
この地に松尾芭蕉も訪れたようで、東大寺の修二会(お水取り)を観たあと、ちょうど桃の花の見頃であったのだろう、伏見にいまものこる西岸寺の任口上人を訪ねたおりに、つぎのような一句をのこしている。
「我衣にふしみの桃の雫せよ」貞享2年(1685)のことだったという。
足穂の文によれば、貝原益軒の『京城勝覧』(1706年)という京都の名所案内書がきっかけであったとしている。
ともあれ桃山という地名がまわりの人びとから広く認知されたのは、十八世紀を待たなければならなかったわけで、先に書いたように政治の中心がおかれた地名による時代区分をあてはめると、安土桃山時代ではなく、「安土伏見時代」と称するべきであろう。
私の家は、京都で二百年あまりつづく染屋である。私で五代目になる。
祖父は長男であったにもかかわらず、どうしても日本画家になる夢が捨
てきれずに、弟に家業をゆずって明治二十九年に東京へ出た。
当時の日本美術院に属していたが、四十三歳という若さで亡くなっている。
あとを継いだ三代目にあたる祖父の弟は、大正年間に京都の西洞院綾小路を西に入った、
同じような染屋が軒を連ねるところで盛業していた。
往時は、きものが全国津々浦々まで販売されていて、とても景気がよかったのである。
そのなかでも東京はなんといっても最大のきもの消費地であった。
工場を京都だけでなく、東京にも造営するところが増えていった。
吉岡の染工場も、ご多分に洩れず旧高田二丁目の神田川沿いに設けられた。
三代目は、月に二、三度夜行列車に乗って京都と東京を往復して仕事を続けていたという。
その東京工場も、第二次世界大戦の空襲ですべて焼けてしまった。
私も、そうした「東京」への志向を受け継いだのか、高校卒業後、
早稲田大学へ入学した。
ちょうど東京オリンピックが終わったあとで、高度成長した東京の街は、
いかにもハイカラなものに見えた。
私は江戸情緒を味わうと称して、大学をさぼって寄席に行ったり、
夕刻早くに老舗の蕎麦屋に入って、酒を飲んだりするようなぐうたらな
生活をおくっていた。
日本橋の「砂場」が、まだ都電の通りに面していたころである。
京都で育ったものにとって、蕎麦屋で、卵焼きや焼き海苔で、
酒を一杯やるということは、全くそれまで見ることのなかった風景なのである。
「これこそ江戸の粋」などと勝手に思いこみながら楽しんでいた。
あるとき、私の父が久しぶりに上京してきた。四代目の父は、
東京にはそうなじみがない。息子に御飯くらいご馳走してやろうという親心で
「どこか、お前の好きなところへ連れていってやる」といってくれた。
私は日本橋にいい蕎麦屋がある、そこにしようといって案内し、
二人でのれんをくぐった。父は、はじめはその佇まいに感心してご満悦なようであった。
酒を飲まない人だったので、ちょっと甘めの卵焼きなどを美味しそうにつまんで、
あとは盛り蕎麦を食べていた。
そこの勘定は当然、父が払ってくれたのだが、蕎麦屋の値段にしては、
かなり高く感じたのであろう、別れ際に、学生の分際でたびたび来るところでは
ないぞ、と苦言を言われた。これもいまとなっては、なつかしい思い出である。
都電はなくなり、砂場は大通りからいま少し入ったところに移ったが、
古きよき佇まいを残しながらある。いまも上京して時間のあるときは、
立ち寄って亡き父の言葉を想い出したりしている。
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